

「渋谷系」の熱を生んだ、売り手と客のコール&レスポンス|シブヤ文化漂流記
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鈴木陸夫
渋谷の文化をたゆたう
「流行の発信地」として、長年日本のカルチャーシーンを牽引してきた渋谷。近年はその活力が薄れたという声も囁かれますが、この土地で芽吹いた文化の因子は、きっとどこかに残り続けているはず。本企画では、渋谷にゆかりのある人々の話を通じて、時代とともに変容してきた街の軌跡を辿っていきます。
3回目のゲストは「渋谷系の仕掛け人」とも呼ばれる元HMV渋谷のマーチャンダイザー・太田浩さん。日本中を巻き込むことになる「渋谷系」のムーブメントはどのようにして生まれ、熱を帯びていったのでしょうか。
府中が町、立川が都会、渋谷は宇宙

——さくらステージにあるイベントスペースのメディアとして、音楽の街・渋谷の原風景を数珠つなぎの取材で追っている。
桜丘には昔、タワーレコードの本部があったんですよ。15年ぐらい前ですかね。今回の再開発でそのビル自体なくなってしまいましたけど。あとはThe Roomというクラブもありましたので、あっちの方にはその当時よく通っていたんです。もっと遡ると高校のとき、バドミントン部に入っていたんですけど、ヨネックスのラケットショップがあの辺りにあって。それで桜丘に来たりもしていましたね。
——ご出身は。
東京で、1962年生まれ。前回出ていたカフェ・アプレミディの橋本さんより上です。四つ違いかな。
——渋谷には幼い頃から?
いや、中学までの僕からすれば渋谷は大都会だったから。出身は稲城市。だから子供の頃は府中が町で、立川が都会という感じ。新宿、渋谷は……まあ宇宙ですよ。
——渋谷は宇宙。
高校に入って、よく遊びに行くようになったのが吉祥寺。友人にあの辺が地元のやつが多かったから。その頃から音楽も聴き始めて、渋谷のシスコとかにも通い始めました。あとはファッション……というよりアイビーか。『ポパイ』にいろいろと教え込まれた世代なので。ミウラ&サンズ、今は麗郷があるところなんかに偉そうにデートに行ったりね。当時は『angle』という街雑誌があったので、それで必死に道を覚えて。
——音楽と言えば渋谷だった?
そうですね。フュージョンとかAORの世代なので。あの頃、AOR、フュージョンに強かったのが渋谷のシスコさん。だからそういうのを見にくるというか、買いにくるというか。近隣の小さいお店だったり、ディスクユニオンだったりも見て回って。自分では「レコードツアー」と言っていたんですけど。
流れ流され邦楽担当に

——高校卒業後、すぐにレコード店で働き始めた。
建築系の専門学校に半年間通ったんですけど、何を思ったか、渋谷を通り越して王子というところの学校に行ってしまったので。朝の通勤ラッシュにめげて、出席日数が足りないから進級試験が受けられないという状況になってね。親父に言ったら「お前は留年したら絶対遊ぶ。ダメだ。就職しろ」と返ってきて。それで仕方なく「今の自分にできることはなんだろう?」と考えて、行き着いたのがレコード屋でした。吉祥寺の新星堂は当時、輸入盤と国内盤を併売していたんですが、一番通っていた場所だったので。面接を受けたらサインしていただけて、それで19から働き始めました。
——1990年にHMVに移るまで働いていた。転職のきっかけは。
新星堂では9年やったんですが、そこにタワーレコードに続く外資として、ヴァージン・メガストアが上陸するという話が入ってきて。『ミュージック・マガジン』だったかに求人広告が出ていたのを見て、応募したんです。店長には黙って。書類選考で落ちたんですけど、そこから1か月もしないうちに「HMVっていうのが日本に出店するんですけど、ご存知ですか?」みたいな電話がかかってきました。
——ヘッドハンティング?
かっこよく言えばそうなるのかもしれないですけど。要するに僕の履歴書が人材派遣会社のあいだで回っていたんですよ。立ち上げのときの社員は100人くらいだったと思うけど、WAVEで働いてた人、タワーから来た人、そんなやつらばっかりで。僕はその中でもいち早く移っていたので、全体でも3番目の社員。部長、部長、自分、みたいな感じでした。
——たまたま配属されたのが邦楽部門だった?
いや、新星堂で洋楽をやらせてもらっていたから、当初は洋楽で、ということで始めたんですけど。途中でハブられたんですよ。洋楽担当の中で浮いてしまって。
——なぜ?
そのときの店長はWAVE出身の人だったんですが、そのやり方とちょっと反りが合わない部分があったりして。邦楽に来ていたのがたまたま同じ新星堂出身のやつで、2号店の横浜ができるときに移ることになって。「新星堂ならお前、国内盤がわかるだろう。邦楽をやれ」という形で声がかかりました。それで「まあいいや。1か月2か月やってみて、嫌だったら辞めちゃおう」と思って引き受けたんです。
——後に日本の音楽史にも影響を与えることになる分岐点。だが、望んだ異動ではなかった。
そういうことがいろいろとあるじゃないですか、人生には。
僕の知らない渋谷がそこにはあった

——少しだけ遡って音楽のことを聞きたい。山下さんは生まれが長野というのもあって「周りにビートルズを好きな人を探すのも一苦労だった」と言っていた。太田さんはどうだったのか。
僕の時代はまだ洋楽の歴史が浅いんですよ。ビートルズが解散して5、6年っていうところで、エルトン・ジョンだったりクラフトワークだったりが現在進行形で動いている時代。だから学習もしやすかったんです。山下くんはそこから10年ぐらい違うんじゃないかな。それこそ渋谷系の頃以降になると、ロックだけでも30年分も学習しなきゃいけなくなる。それは大変だよな、と。
——自然と洋楽が好きに。なおさら邦楽担当に移ることには抵抗があったのでは。
新星堂出身ではあるけれども、採用してもらったのは輸入盤の店でしたしね。客としても、中学時代は国内盤で満足していましたけど、一度輸入盤を知ってしまうと「もう新星堂、国内盤なんて卒業」みたいな偉そうな感覚になってね。新星堂の最後は新宿の靖国通りの店で洋楽担当。まあ国内盤の洋楽ではあるんですが、「邦楽なんてカッコわりぃ!聴かないし、触りたくもない!」みたいに思ってました。まったくひどいやつですよ。
——前向きに楽しめるようになったのは。
レコード会社の担当の人から「渋谷ではこういう音楽が売れるらしいですよ」というのを教えてもらってね。それがピチカート・ファイヴやOriginal Love、UFOとか。VENUS PETERというグループのライブを見にON AIRへ行ったら、客は50人ぐらいしかいないのに、なんだかすごくいい感じに揺れていて。ピチカート・ファイヴのライブではファッションショーをやっていて、全然演奏なんてしていなかったり。「なんだこれは!俺の知らない邦楽の世界がこんなところにひらけてた!」と思いました。僕の知ってる、シスコさんとかそういう渋谷とは違う渋谷がそこにはありました。

——そこからのめり込んでいく。
フリッパーズギターの2人だったり小西康陽さんだったり、ああいう人たちは洋楽が好きで、それがあって今の自分の音楽が作られているということを公言していましたから。それをバックアップするレコード会社のスタッフの人も含めて「なんだ、俺と同じようなのを聞いてるじゃん」ということを知って、「だったら説得力を持ってお客さんにもおすすめできるな」と思ったんです。この渋谷という場所でね。
——ちなみにレコードのマーチャンダイザーがライブハウスやクラブに足繁く通い、リサーチするのは普通のことだったのか。
どこまでを自分の仕事と思うかという、その人の仕事観の問題でもあると思うんですけど。僕の場合は単純に、距離が近かったから。クアトロまでは本当に20〜30歩で行けた。「ちょっと30分くらい見てくるわ」と言って出ていって、また戻って仕事をするみたいな感じでした。
特に印象に残っているのは、クアトロで見たOriginal Loveのライブ。コアファンの人たちがおっきな声でやじってるんですよ。でもそうすると、Original Loveの演奏ものってくる。「ああ、こういうコール&レスポンスができるアーティストが売れるんだ」「こういうファンがついてる人が売れていく人なんだ」と思いました。それが僕の判断基準みたいなものになって、「次のアルバムは何枚仕入れようか」というのを決めていました。
店を「遊び場」にしたかった

——そういう場所が密集していることの意味は大きい。それが渋谷だった。
そうです、そうです。ライブハウスだけじゃなくて、HMV渋谷でよく売れるアーティストたちが、DJ Bar Inkstick やRoomといった周辺のクラブでよくDJイベントをやったりもしていましたし。それで僕がやったのが、そういうイベントのチラシを売り場に置くことだったんです。当時はインターネットもない時代だから、お客さまはそういう情報を欲しがるに違いないと思って。そこにはフリーペーパーとか、スペースシャワーTVが作っている番組宣伝用の小冊子とかも置いてね。小沢健二さんが記事に出ていたりしたので。そうするとみんな喜んでもらっていきましたよ。
——ただならぬ空気感があり、それをみんなでつかみに行っていた?
いや、そんなすごいもんじゃない。タダだからいっぱい持っていくみたいな、そんな感じですよ。女子高生が大挙してコーネリアスの新譜とかを予約していくんですけど、彼女たちは必要だから予約してるわけじゃない。予約という作業がしたいんです。
——予約という作業がしたい。
学校が終わったら渋谷に来て、店による。でも、せっかく来てるんだから何もしないで帰るより、何かして帰りたいじゃないですか。だから予約もするし、チラシももらって帰る。そういうことだったと思います。当時は内金0円でやっていたから、ひどい話、予約だけして取りに来ない人も結構いてね。こちらからすると、そういう人がいるのを見越して発注する枚数を決めなくてはいけないから、すごく難しかったですよ。
——お客さんのニーズをよく見ていた。
新星堂時代の先輩によく言われたのが「自分たちが売ってるんじゃない。店の看板があるから売れるんだ」ということで。それを聞いて自分なりに思ったんです。自分たちはキッチンカーのようにあちこちへ出ていって売れるわけじゃない。店はずっとここにあるわけだから、地場のお客さんにどうアピールしていくかが大事なんだって。どこの誰が売っても同じように売れるアーティストはともかくとして、そうではないアーティストのCDを500枚から700枚、800枚にしていくにはどうしたらいいか。答えは単純で、何度もHMVに来てくれるリピーターの人たちが何を求めているかを探っていけばいい。その頃受けた取材では、そういうことをよく喋っていた気がします。

——「邦楽売り場にデ・ラ・ソウルを置く」みたいなこともそういうところから生まれた発想?
そうそう。要するにこれもサービスですよ。お客さんに喜んでもらうため。店を遊び場にしたい、遊んでもらいたいという気持ちがありました。実際にそれができたというのは、完全に内輪の話です。ソウルの担当だった子に「デ・ラ・ソウルを1階の邦楽売り場にも置かせてくれない?」「5枚、いや3枚でいい。売上は全部君の品番でいいからさ」ってお願いしたんです。自分の売上になるなら彼としても断る理由がない。それでスチャダラパーの横に置いたんですよ。ちなみにその後、本屋さんでもカレーの本の脇にレトルトのカレーを置くようになったのを見て「ああ、おんなじことをやってるな」と思いましたね。
——そういう「文脈で売る」やり方は当時はあまり一般的ではなかった?
どうだろう。他がどうだったかまではわからないですけど。当時は本当に黎明期なので、みんな模索していたんですよ。店長もそうだし、本部の部長からしてがそう。だからとりあえず売上さえあげてしまえば、誰にも文句は言われないだろう、と。そういう僕の拡大解釈から生まれたものです。
重要なのは、叩けば響くお客さんがいたこと

——山下さんも橋本さんも「渋谷系は太田系だ」と言っていた。
途中からはもう面倒くさくて「そうです」と言ってきたから。でもそんなことより、叩けば響くお客さんがいたというのが何より重要なことで。それに対して、僕が返すことで流れができていったことは確かだとしても、何系と呼ばれようが、それは大した問題じゃない。ただ、言葉があった方が便利だというのはありました。ロックとかジャズみたいなわかりやすい括りがないから、何かしら説明の言葉は必要だった。その実態は、渋谷近辺のライブハウスでライブをやるアーティスト、ぐらいの話なんですけどね。
——便宜上の言葉だった。
そもそも僕が考えた言葉ではないですし。『apo』という雑誌の編集の人がつけたんだと思う。いや、つけたというか、取材に来たときに編集の人同士で「それって渋谷系だよね」って話していたんです。「なんですか、それ」と聞いたら「社内ではそう呼んでるんです」って。僕も一応「SHIBUYA RECOMMENDATION」という売り場名にはしていましたけど、それは売り場の話であって、ジャンルではないので。
——他の邦楽とは明確に売り場を分けていた。
予約だけしたい若い子たちがすごく増えたことで、会社の休憩時間に井上陽水の新譜なんかをサクッと買って帰りたいサラリーマンがその後ろに並ぶことになってしまってね。彼らとしては早く買って帰りたいし、こちらとしても早く捌きたい。ちょうどそんなタイミングで売り場を広げる予算が降りたという話があったので、だったらカウンターを広くとって、買って帰りたい人と予約だけしたい人を分けてしまおう、と。だから本当にビジネスライクな話なんですよ。

——自分の仕事が目に見えて時代を作る。文化の担い手として、当時は何を考えていたのか。
何を考えていたのかと言われても、日々飲んで、店を開けて、また飲んでというくらいのことで。夜9時に店が終わると、そこからはほぼ毎日飲みでした。打ち上げに顔を出すにしろ、疲れを癒すにしろ、僕には酒しかなかったから。仕事と遊びの垣根はなかったです。毎日稲城まで1万円くらいかけてタクシーで帰ってね。いや、もちろん自腹ですよ?経費ではなくて。給料の半分はタクシー代で消えてました。
だから文化の担い手としての使命感なんて大それたものはない。ただ、新星堂で働き始めた頃から「レコード屋として働くのであればいつかは渋谷で」という夢は持っていました。だから実際にHMVで働けるとなったときは、ステージに立つような気持ち。ステージに立っているという自負を持ってやっていたとは思います。
工事中。だが若い人は「その先」に気づいてる

——ステージに立ち、お客さんと真剣に向き合う。まさにコール&レスポンスが熱を生んでいた。だからみんなが口を揃えて「渋谷系は太田系」と言うのかもしれない。そんな大田さんが、今の渋谷に対して思うことは。
歳をとってしまってわからないというのが正直なところで。もう用事がない街になってしまったから。当時通っていたお店もなくなってしまったしね。
——文化の発信地としての渋谷は今もどこかに残っている?
ど素人の意見でよければという話ですが、過渡期は過渡期なんじゃないですかね。だってずっと工事中じゃないですか。だから次の何かが花開くのはもうちょっと先なんじゃないかと。ただ、渋谷にちょくちょく来ている若い人たちは、すでに気づいている部分がどこかしらにあるのでは。……と、老人になった僕は勝手に思ってますよ。新しい何かというのは老人が作るものではないので。老人は居酒屋で飲んでいればいい。いや、僕は、という話ですけど。元気な老人はヒカリエの文化サークルとかで頑張っているでしょうからね。
——遊び場としてのレコード店は今後も残るだろうか。
僕自身がもうレコード屋に行ってないのでね。でも、たまに前を通ると、タワーなんかは今も女の子の溜まり場になっているじゃないですか。難しいのは、アイドルも50人くらいのごく限られたお客さんに向けて、という文化になっていることですよね。そういうことがいろいろなジャンルで成り立ってしまっている。ネットで音楽を発表すれば、すぐに世界デビューという時代でしょう? そうするともう、マスという流れは作りにくい。まあ、その辺は皆さんの方が感じていることでしょうが。

——太田さんはまさにそこを仲介する役割を果たしていたわけだが。
手前味噌で偉そうですけど、結果的にそうだったかもしれないですね。インターネット前夜だったから。
——HMV時代の人とは今もお付き合いが?
当時のスタッフで付き合いがあるのは数人。でも大変そうですよ。会社の制約とかコンプライアンスとかが今はいろいろとあるから。僕らの時代にはなかったですもん。レジの決済方法や機械の操作だけでも覚えなきゃいけないことがたくさんある。それだけで辟易してしまいますよ。残念ながら、「店で遊ぶぞ」なんて気持ちがなかなか起きてこないのも事実ではないですか。だから、どうか若い人が萎縮しないで、伸び伸びできるような社会、伸び伸びできるような街になってほしいなと思いますね。